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日誌

「ちがう」

 

学びの森のタナカです。

 

 

人ってほんまにそれぞれちがうんやな~と思っている今日この頃です。

 

 

 

 

先日桜井先生の高校生ゼミで、芥川龍之介の「鼻」を読んでいたところ、「どうやって小説を読んでいるか」という話になりました。

 

 

ある人は「描かれている光景が映画のように映像になって頭の中に浮かんでくる」と言い、ある人は「言葉として自分の心の中に落ちてきて、それをかみしめる感じ。映像は想像しようと思わないと浮かばない」と言う。

 

 

 

 

え、「小説を読む」という行為って、みんな同じようにしてると思ってた!!!と目から鱗のタナカ。

 

 

ひとつの小説の受け取り方や登場人物への印象の抱き方―たとえばこのゼミで読んだ「鼻」の主人公禅智内供を愚かしく滑稽な人だと受け取るか、あるいは人間らしい可笑しみと可愛らしさのある人だと受け取るか、など―に一人ひとり違いがあることは分かっていたものの、「小説を読む」という行為のしかたにすら人による違いが存在するとは思ってもいませんでした。

 

 

 

 

このことを踏まえると、「小説を読む」以外にも、ごくごく一般的な行為が人によって全然違ったり、それを指す言葉から受ける印象もまた違ってきたりするのではないかと思い、恐ろしいような、おもしろいような気持ちになりました。

 

 

 

 

そう思って普段の生活の中でしていることを振り返ってみると、たとえば私の大好きな「ごはんを食べる」という行為には、その日食べるものを決めるうきうきとそわそわ、調理のため葉を刻むときの包丁のリズムと心地よい着地の感触、大好きなひとたちと時間と熱意を注ぎお店と注文を決めたごはんを口に含み咀嚼した瞬間のキラキラするようなおいしさの快楽、といったものが含まれていて、「ごはんを食べる」という言葉からはそういった一瞬一瞬とその時の感情を想起します。

 

 

ほかにも、「本屋に行く」のまだ出会ったことのない誰かと出会いに行くようなどきどきとそれを我が家の本棚に迎え入れることを想像したときの胸の高鳴り、「お酒を飲む」のアルコールが食道を通り胃に沁みた瞬間に感じるシャボン玉がはじけるような脳の解放感やそこでいくらか陽気になった友と重ねる会話のフラットな心地よさ…。

 

 

外側から見ていると皆等しく同じ行動をとっているように見えるのに、その行為のしかた、受け取り方、味わい方はそれぞれ全然違うんだろうなと思ったのです。

 

 

 

 

そしてそうやって全然違うのに同じ時間と場を共有しなんとなく共通の理解を持ちながらなんとなくコミュニケーションをとり生きている私たちの器用さにも、改めて感動しました。

 

 

 

 

私が学びの森で生徒と話す時、その言葉がどんな事柄を指しているのかをなるべく正確に聞きたいと思い、「それってどういうこと?」「『分からへん』って何がどう分からへんの?」と質問を重ねることが多いです。

 

 

同じ言葉を使っていても、想定している内容にズレがあると同じ理解の土台に立てないので、なるべくそのズレがなくなるようすり合わせを行います。

 

 

それでもやっぱりズレは存在するのですが、そのズレの存在を完璧になくそうとしなくていいんだな(そもそもそんなものなくならない!)、それがあるけど(あるからこそ)一緒に生きている私たちという関係性が面白いのかもしれない、と思うようになりました。

 

 

 

 

皆さんにとっての「小説を読む」は、どんな行為ですか?