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日誌

「不登校」だから?

 

こんにちは、学びの森のタナカです。

 

先日、ハイスクールの生徒たちと共に立命館大学に行ってきました。

 

 

 

 

理由は、教職課程を受講されている立命館大学の学生さんと学びの森の生徒たちとの交流授業のため。

 

この模様は木下先生がブログに書いてくださったので詳しくは割愛しますが、私タナカも「学びの森」に関わるいち人間として参加いたしました。

 

全2回行われた授業のうち初日は、まず大学生たちに「不登校」に対するイメージやそこから連想される言葉を、続いて学びの森の高校生たちに「大学生」へのイメージを聞き、ホワイトボードに書き出していきました。その後、学びの森の生徒・スタッフ1人に対して大学生2~3人という小グループに分かれ、先ほど出た言葉に対するそれぞれの感想や質問、思いなどをグループディスカッションで話し合う、という流れ。

 

私が参加したグループでは、ひとつ印象的な質問が出されました。

 

 

 

 

「学校に行ってる子と行ってない子ではやっぱり違うだろうし、こちら(教師側)の対応も違ってくると思うんですけど、不登校の子たちと接する時に気をつけてることってどんなことですか?」

 

 

この質問を聞いた時、雷に打たれたような衝撃が走りました。

 

「この子たちが『不登校だから』気をつけていること」は無いかもしれん、と思い、この問いに対して少し違和感を感じたのです。

 

 

学びの森フリースクール・ハイスクールに来ている生徒は基本的に学校というシステムが合わずここへ来た人たちがほとんど。

 

ということは、学びの森に来ている子たちは、世間(≒学校)からはほぼ全員「不登校」と呼ばれ(たことのあ)る人たちだということ。

 

そのため、日常的に接するフリースクール・ハイスクールの生徒たちに対して、私の中で「不登校の生徒」「登校している生徒」の区別があまり存在しないんです。

 

「不登校だから」でなく、それよりも、「この子はこういう考え方をしているから」「こういう要望があるから」「こういうことに傷ついてきたらしいから」「こういう工夫をしたら分かりやすくなると思うから」という、一人ひとり異なった、個別性の高い具体的な理由で気をつけていることが多いと思ったのです。

 

だから、「不登校だから」という理由で括られると少し違和感を感じる。

 

(そもそも「学びの森」という学びの場に毎日通っている生徒たちを「不登校」と呼ぶことには我ながら違和感を感じています)

 

 

 

 

かといって、その問いを投げかけた大学生の感覚を「変だ」とも思いません。

 

社会的少数者の人たちに接する時、私自身も「○○○の人たちに接する時、相手を傷つけないためにはどんなことに気をつければいいんだろう?」という疑問を持つことがありますし、「傷つけないようにしたい」という思いを持つことは至極当然だと思うから。

 

ですがその現場にいる人たちにとっては、「○○○」という特徴のひとつで抽象化された人たちがいるわけではなく、「一人ひとり違う人間がそこにいるだけ」なんだろうなと。

 

 

もちろん「学校」という場所でものを教えることになる人、公的機関でその問題に取り組む人、学術的に研究している人…といった人たちにとって、情報整理や問題検証のために「登校」「不登校」の区別は必要でしょうし、その特徴によって抽象化し必要な対応を整理することも重要です。

 

そして現場の私たち自身にも、一人ひとり違う人間である生徒たちと接する中で感じたこと、考えたこと、見えてきたことを社会に還元し、学校だけでない多様的な「学び」の場をつくり出していくためには、社会に対して「不登校」というキーワードで問題を語る必要が出てきます。

 

このあたりのバランス感覚がいつも難しいのですが。

 

 

 

 

長くなってしまいました。

 

ひとつの問いから、こんなことを考えた時間となった、大学生との交流授業。

 

 

帰り道に生徒たちの感想を聞いてみると、それはそれは人それぞれ。

 

同じ場にいても(ディスカッションするグループが違ったため、厳密に「同じ」とは言い切れませんが)、皆感じることは違うんやなぁ、こんなこと思ったんや、などと興味深く感想を聞きました。

 

 

このあたりは、また後日詳しく書きたいと思います。